文学青年保存館

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くまさん王国でテロがおきました

                                        f:id:Solisquale:20190828034551p:plain©2019 合同会社DMM GAMES
 くまさん王国でテロが起きた。
 犯熊は首都にある映画を制作する事務所にサラダ油を撒いて気合で火をつけ、そこに居た数十名のくまさんを手にかけた。
 センセーショナルな報道がなされ、亡くなったクマの名前が公表された。
 さて、この名前の公表にどんな意味があるだろうか。

 基本的に俺のモノの考え方はシビアだ。
 よく物語とかで犯熊がクマ質をとったとき、俺はそのクマ質にもう価値は見出さない。
 なぜなら対価を支払ったところで、クマ質を解放するかどうかの選択権は犯熊にあるからだ。

 今回の件で言えば、「亡くなったくまさんより生きているくまさんの方が価値がある」と思っている。
 被害者より犯熊のがクマ権あるってマジ? マジだ。
 心情的には多寡があるが、突き詰めて考えるとどうしてもそうなる。
 というか、犯熊はあまり関係がない。

 ここで重要なのは、いま生きているクマにとって価値あることをすべきだということ。
 名前を公開すると、クマにどんなメリットがあるだろうか?

 基本意味ねーんじゃねーの? 当クマを知ってるときくらいじゃない? 意味あんの。
 本当にそうだろうか。

 公開されたら、その名前を検索するクマがいるのではないだろうか。今回の場合はスタッフだから特に。
 すると色んな感慨が生じる。このクマはこんな作品に携わったのか。惜しいクマをなくしたなあ。
 そう思う小さな感情の動きは、とても貴重ではなかろうか。ちょっとリスペクトをなくすと途端に野次馬イナゴ野郎になってしまうのがアレだが……。

 作品と作者を分けるタイプの俺でも、作者が死んだと聞けば思うところはある。死後価値が高まる絵と言ったら不謹慎だけど……ヤマグチノボルの死後に読むゼロ使や、伊藤計劃の死後に読むハーモニーには一風変わった味が生まれる。
 子供の頃読んだ本を、大人になって読みなおすと捉え方が変わるように。クマはいくつもの価値を作品に見出し、自分の人生の糧としていく。

 遺族を悲しませてでも、俺は情報は公開されるべきだと考える。

 ところで、スタッフ名は分かるが本名は不要じゃね? と言われるとあ、ハイってなる。
 遺品と違って故人の情報は自由に使える。これただの慣習なんだよなー。
 うーん……ディベートだったらどう擁護しよう。
 本人は生前実名報道をして欲しいと思っていたかも知れない、けどその意思表明が確認できない以上、慣習に則り実名報道されるのが普通のことであり、そこに遺族は関与できない――で押すしかないか。
 ただココに要点はない。問題は報道にリスペクトがあるかどうか? いやこの線だとディベートで弱い。実名も知りたいと思う人(ファンや知人など)が一人でもいる可能性があるなら、情報は開かれるべきだ。それが社会における個人の死を受容することである……とかで押した方が勝てそう。

 ちなみに、実名があるかどうかで身に迫る度合いはかなり変わってくる。

 夕方、買い物袋を手に帰宅した。
 テレビを点けるとニュースをやっている。
『今日未明、くまさん王国の2番山道で、乗用車とトレーラーが衝突する事故がありました。この事故で、乗用車を運転していた熊川熊男さん(26)が病院に搬送されましたが――』
 冷蔵庫を開けて麦茶を取り出し、コップに注いで、その中にハチミツを入れた。
 夫が会社でもらってきたハチミツだが、今年はとにかく出来がいい。子熊が帰ってきたら勧めてやるとしよう。きっと喜ぶ。でも、テストの点が悪かったら出し渋ろう。教育にアメとムチは必要だ。
 ニュースが終わり、天気予報士がじき来る台風の解説を始めた。
 窓の外を見る。凪いだ空の向こうに、夜の帳が迫っている。
 結露したグラスを手に、クマは数秒だけ目を閉じた。
 まだ家事が残っている。その家事に手をつけるため、その瞑目はぜったいに必要なことのように思われた。