小春めう「メモリー」とBUMP OF CHICKENの関係
小春めうの「メモリー」を聞くと、BUMPと同じ温度を感じる。
弱者に寄り添うのはありふれた視点だが、その描き方がどこか通底している気がする。
>ここまで持って来たんだ 震えたままの脚でも 「メモリー」
>震える手でその足で 全てを決めるんだ 「(please)forgive」
ここまで来た事実をもって処方箋とするのは人間がよく使う手だ。
古くはコギト・エルゴ・スム。現代でも過去の栄光が拠り所という人は多い。
バンプもあの手この手でそれを伝えようとする。
「セントエルモの火」なんかを聞くとそれが分かりやすい。
>汚れたままでも 浅く呼吸はしていた 「メモリー」
>まだ生きていた、僕の中で一人で 「オンリーロンリーグローリー」
>覗いた水たまり 映った人が教えてくれた 「メモリー」
>鏡の中に探しにいくよ(中略)映った人に尋ねるよ 「Smile」
人間は生まれる時も一人なら、死ぬときも一人である。
自分の脳は自分だけのもので、生涯誰かと連結することはない。
ならば誰と関わろうとも、その影響は自分の中で完結する他ない。
これを分かりやすく敷衍した例が、『化物語』における忍野メメの至言「一人で勝手に助かるだけ」だろう。
どんな挫折からも、必ず最後は自分で立ち上がらなければならない。
孤独を窮めた者が見る地平を、藤原もメモリーの作詞者もしっかり見ている。
>忘れられたって何度でも痛み思い出せるよ 「メモリー」
>大丈夫だ あの痛みは 忘れたって消えやしない 「ray」
痛みについての取り扱いはBUMPのほうが少し老獪である。
痛かった過去が消えても、その意味までは消えないというハイレベルな肯定をしている。
もちろん「今痛い」メモリーと、「昔痛かった」rayの違いはある。
心の温度が高いメモリーの方は、茶化す余裕がまだ無いのは当然である。
その他、似ていると思ったのは朝昼夜とクルクル変わる空の色。
雨が降って困る主人公の扱いと、光の描き方なんかも似ている気がする。
>夕陽に照らされた僕の冷たい影追いかけた 「メモリー」
>悲しい光が僕の影を 前に長く伸ばしている 「ray」
ただBUMPほど夜🌃を司っている印象はない。
メモリーのタイアップゲームのタイトルは『夜巡る、ボクらの迷子教室』なので、
曲調と合わせて夜って感じはするけども。
というワケで比較してきたが、俺の言いたいことは何なんだろう。
温度の似ている作品を見つけたのが、単純に嬉しかったのかもしれない。
2日後の追記
ちょっとググったらみんなBUMP言ってて笑った
バンドもリスペクトを公言してるんだとか