ウラブタの上

箱の中の神さま

ある日a

 病院の待合室で読む『ハーモニー』には格別の妙味があった。
 伊藤計劃が残した遺書を現代医療の最前線で味わう機会などそうあることではない。

 今僕がいるのは市で唯一の大病院、その総合ロビーである。
 広い空間に高い吹き抜け、洒落た木目の壁にはでかでかと会計ナンバーが並び、その下には自動精算機が3台稼働している。
 のっぺりとしたイスに腰掛け、僕は自分の診療科への案内を待っている。

 うん、優雅なのはガワだけなんだ。朝からこっち、かれこれ5時間待ち続けている。
 睡眠を4時間しかとっていないのもあって、我が顔には疲労の色が浮かんでいる。

 朝イチで町医者にかかり、1時間半かけて大病院への紹介状を取り付けた。一筆したためるのになぜこれだけの時間がかかるのか理解に苦しむが、とにかく2000円(3割負担)払って今日のテーマパークへのチケットを手にした。
 ここでハーモニーを名実ともに半分消費した。

 で、フラつく頭を押して大病院くんだりまで出向き、脳神経内科にかかった。
 まさか診察に呼ばれるまで2時間半かかるとは思わなかった。
 マイ人生におけるギネス記録を間違いなく更新した。
 ハーモニーの余韻なんて残るはずもない。

 こんなに時間がかかった原因は、今日が連休明けの月曜日なのに加え、僕の小児科時代のカルテを紛失してしまったかららしい。
 怒る気力もない。前回もたしか移管で揉めた覚えがあるし、10年近く前のことだ、致し方あるまい。
 というか、もし怒れても怒らなかったと思う。
 待っている間、ずっと受付の周りにいたが、職員の仕事ぶりが本当にキツそうだったから。
 耳が遠くキレやすいおっさん、のんびり話す無邪気なおばあさん、他者への配慮を微塵も感じない中年――これらに追従の笑みを配り、無心で捌いていく受付嬢の悲鳴を、俺は確かに聞いたように思う。

 ともあれ、診察だ。僕の耳鳴りの原因が、脳の異常な興奮にあるのではないか。そう伝えると、もう1度脳波の検査をして調べてくれることになった。
 でその予約が14時に入る。
 現在時刻は12時45分。
 僕は引きつった笑顔で、「お昼をたべてきますね」と告げた。

 院内にある売店で煮卵おむすびとカロリーメイトを買い、桃味のいろはすで流し込む。
 どこもかしこも人だらけなので外に出て適当なコンクリの上で食べた。
 茫と景色を眺めていると、タクシーやらワゴンやらが乗り付けて人をつぶさに吐き出していくのが見える。おいおい、中はもう満員だぞ。
 みんな、何をそんなに病んでいるのだろう。
 ……いや。人生100年、その間に引く何千回というクジの中で、病気はまず引き当ててしまうものだ。伊藤計劃の世界は、まだまだ遠いなあ。

 などと空想しつつエネルギーを摂取すると、身体の調子は幾分良くなった。やはり肉体にはきちんとエサをあげるべきだ。トァンが言う「肉体にふさわしい精神」がしっかりインストールされているかは、今日は議題に挙げないでおく。

 そうこうしているうちに検査の時間が来た。中学生の頃と同じ検査室に案内され、頭に電極をつけてもらう。
 いつもなら短髪なのだが、最近は余裕がなくて髪が長いのを気まずく思う。
 昔は寝不足で来てもらって睡眠時の脳波を取りたがった覚えがあるが、今日は寝る必要はないらしい。
 今日こそ睡眠不足でそこは如才なかったのだが……。
 リラックスするようにとも言われるが難しい相談だ。今も努めて冷静に振る舞っているが、この緊張はしっかり機器に記録されていることだろう。

 終わり際にポリゴンフラッシュをゆっくり味わわされて、計40分ほどの検査は終わった。
 さて僕の脳波はいかほどのものだったろう? 次に呼ばれるまで1時間かかっても俺は驚かない決意だ。

 見渡せば病院は老いにあふれていた。車イスにすわる老人とそれを介護する若者――の図が、どの方向を向いても目に入る。僕のとなりに座った家族も仲睦まじく会話しながら、老いた父を優しく労っている。
 娘の声が沢城みゆきに似ていて、どのセリフを切り取ってもドラマのワンシーンのようだった。

 ――で。医者が言うにはとくにてんかん特有の脳波は確認できなかったとのこと。
 ……なぬ? いやそうか、今日は癲癇のカドで紹介状を取り付けたからそうなるか。
 しかしデパケンは出してくれることになった。Rではない100mgを1日2回、朝と夕。

 僕と僕の優秀な外部脳(その名をグーグルという)が出した結論によると、
この耳鳴り及び深く眠れない症状は脳が興奮したまま過敏になってしまっているからだ。
 バルブロ酸とクロナゼパムあたりで興奮を抑えることができれば症状は良くなる、はず。

 逆に言うとデパケンを飲んで良くならなければかなりマズイということになる。
 これから一生耳鳴り&不眠と付き合って行くのはとても辛い。
 精神的にやられることがあれば、自死の線も鎌首をもたげてくるやもしれぬ。

 というワケで朝8時半からの決死行は午後5時にようやく終わった。
 薬代と合わせて4700円ほど持っていかれたが、デパケン入手はお釣りがくる戦果だろう。

 実は薬をもらわずに帰り、家の近くの薬局でバルブロ酸(アメル)をもらおうとしたのだが、
近所のどこにも常備してなくて、結局もう一度大病院の隣の薬局まで出向くというとんでもない事態がこの裏にあったのだが、
 あまりの疲労のため、文章にはしないでおく。

 んで早速夕食後にデパケン飲んでちょっと昼寝(!)したけど
 耳鳴りに特に変化は無い。
 ま、まあね。まだ熟睡できてないからね。この昼寝で更に今日熟睡できない確率は上がったけどね。

 デパケンは1ヶ月分ある。量を調整しつつ、熟睡できる道を探るぞ。
 今日も眠れないだろうから、追加でGABAでも買いに行こうかな。