文学青年保存館

2023 7.25 ブログの更新を停止しました

アサリとシジミのイコノクラスム

 人間て怖いなと思うことがある。

 かわいい動物のほんわかするニュースに反応する人たち
 著名人がちょっとしたミスをしてしまい、それを笑って恕す人たち

 俺は怖い。

 そんな人たちが、ひとたび犯罪者を見ると手のひらを返したように
鋭い言葉で串刺しにするのが。

 二面性、というと違う。
 そう反応するしかないというレベルに取り付く島もないのだ。
 本能の域だ。排斥することで自分のスタンスを表明するかのような……。

 超えちゃいけないラインを明確にするためなのだろうか?
 表明することで、自他ともにそのラインを教えあっている?
 それならば話は簡単だ。

 ただ、何か――叩くことの優越を感じる。
 俺もこのブログで散々叩いているからよく分かる。
 叩くことは楽しい。楽しいのだ。
 安全な場所から、自分で作った投石機に合法の弾を載せることは。

 処方箋がある。
 ユーモアを持つといい。
 世間ではこれを諧謔とか、風刺とか言うんだけど。
 ユーモアを込めると、石を投げるのがもっと楽しくなる。

 一定の距離が空くから、物事をちょっとだけ客観的に見られるようになる。
 なぜかこの方が(自分に親しい小さな)社会的にも評価される。

 心の温度が日によって違うのだ。
 たとえば犯罪者が主人公の映画を観た後。熱い不倫の小説を読んだ後。
 そこに友人が心無い罵声をSNSに投稿していたら、ちょっと残念な気持ちにならないだろうか。

 凶悪犯罪は話が別?
 まぁ、普通はそうか。でも俺くらいの底辺だと、俺にもその可能性が……いや、よそう。

 人間の心象なんてその時々で変わるもの。
 いつだってダブルスタンダードなんだから、常に冗談だけどねw
で逃げられる予防線を張っておくのがオススメだ。

 俺もよく忘れて直截に殴っちゃうから大きな声では言えないけど。
 笑ってマウントを取りあえる社会になればいいなと思う。

 それは格闘ゲームの死体蹴りと同じ。
 死体蹴りすることをマナーにしてしまえば、死体蹴りの不快さが低減する。
 
 日本だと意見を否定することは、その当人をも否定するような風潮がある。
 もちろんその文化で育った俺は、ミスを指摘されるとかなりのダメージを負う。

 こんな幼稚なことを言うなんて、なんて救えないやつなんだ――。

 排斥のラインを下げた先に、
独裁者となったのび太くんは立ち尽くしている。