文学青年保存館

2023 7.25 ブログの更新を停止しました

不格好に見えるかい

 低気圧も手伝って気が乗らないが、
ネット上には俺ぐらいしかソルジャーは残ってないので仕方なく書く。
 
 某メンタリストの発言が波紋を呼んでいる。
 ホームルェスと生カツ保護受給者は不要で、その価値は猫以下である――。

 いいね、面白い議題だ。
 俺は昔「重度の知的障害者の価値」について考察したことがあるが、
その論法は今回も使えるだろうか?

 ちなみに、俺は上述の発言にそれほど危機感は感じない。
 反面教師というか、試金石として必要な気がしている。
 果たして何人の若人がこの問題を正面から論じられるのか?
 おそらくほぼ居ない。それくらい危機的状況なので、いまさら危機感も何もない。

 さて、どこを切り口にしよう。ツイッターを眺めてみよう。

>自分がそうなってしまうかもしれないから、社会的な弱者への保障は必要だ。

 この考え方は――ちょっと危ない気がする。
 弱者は不要という考えに抗せていないからだ。強者への保険という意図が透ける。

 社会的弱者の価値を保証するにはどうすればいいだろう?
 今回は逆に、強者の価値は本当に高いのかを考察していこうか。

 人間はどこまでも一人である。生まれてから死ぬまで、
できるのは他人に間接的に影響を与えることだけだ。

 であれば、影響力の大きい人ほど価値があり、
影響力が少ない人物は価値がない……という判断基準が導ける。
 この基準であれば、確かにホームルェスと受給者の価値は著しく低くなる。

 しかし――トータルで見た場合はどうだろう?
 人間は一生のうちに、どれくらい社会に貢献できるのだろう。

 子供の頃に、他の子供と一緒に遊ぶ。それは健全な市民を育む上で非常に価値のある行為だ。
 少年の頃に、他の少年と一緒に学ぶ。それはry。
 青年の頃に、他の青年と一緒に働く。それはry。
 で、だいたい青年に差し掛かるころにコケる人が増え、社会的弱者にクラスチェンジしていく。

 最初から弱い人はほぼ居ない。ほぼ全ての弱者が、過去にすでに社会に貢献している。
 問題はこれから先も社会に貢献し続けられるかどうか――。

 だが、一般人が老人になるまでにする貢献量は大同小異だ。
 加えて言うと、大抵の人は数十年もすれば、その存在を覚えている人はいなくなる。
 残した功績が大きいほど価値が高いとするならば、一般人には殆ど価値が残らなくなってしまう。

推論①弱者も強者も関係なく、一般人にはほとんど価値がない

 これは暴論に近いけど、言いたいことは何となく伝わると思う。
 僕らは替えが利く歯車なのだ。社会は社会を回す歯車の一員となっていることに価値を置く。
 では、歯車からハズレた人には価値がない――?

 この考え方は良いかもしれない。
 歯車からハズレた人も、社会を回す歯車になっていることを証明すれば弱者の価値を担保できる。

 俺は知的障害者の記事で、すべての人間には需要を牽引する価値があると述べた。
 つまり、ヒトが存在する以上、そのヒトのために衣食住やサービスが必要になってくる。
 牽引する量に差はあれど、需要を生み出すという点で言えば強者も弱者も関係ない。

 むしろニッチな需要を攻めたいヒトには好都合だし。
 是非は別として、全てのヒトの弱みにつけ込む商売をしている人たちよりは健全だし。

推論②弱者も強者も関係なく、すべてのヒトには需要を生み出す価値がある

 
というワケで、僕らにそもそも大した価値は無いんです。
 ただ地球の表面で蠢いている、動物のひとつに過ぎないんです。
 
 今回はだいぶ都合の良い考え方をしたけど、
文明最後のソルジャーにしては……頑張れたほうじゃね?

有象無象 人の成り
虚勢 心象 人外 物の怪みたいだ
虚心坦懐 命宿し
あとはぱっぱらぱな中身なき人間   ――「廻廻奇譚」Eve