文学青年保存館

2023 7.25 ブログの更新を停止しました

🐸と銃とHSP

 思えばHSP*1だった。
 今はそんな名前が付いてカテゴライズできるけど、ソレに意味があるかどうか。

 ガキの頃はよく泣いてたけど、それは健全な子供の範疇だった気がする。
 大学から帰ってふと急に泣いたこともあるけど、それも健全な大人の範疇だろう。

 だが、ときにラインを超えてしまう場合がある。

 銃撃があり、人が4んだ。
 俺はまた無敵の人が現れたかと思ったが、今回は少し事情が違うかもしれない。

 事件以上に怖いのは、ネット上の世論だ。
 少し検索しただけで、犯人は4んで当然というような言説が大量にヒットする。

 本当にみんなこういう考えなのかな?
 リアルな実情なのか、インターネットだから悪意が増幅されているだけなのか、
それは分からない。

 事件に怒りを感じるのは当然だ。恐怖を感じるのも頷ける。
 でも、自らを顧みる人が殆ど居ないのは何故だろう。

 多くの人が、この事件を自分とは関係のないものとして処理しているように見える。
 社会から爪弾きにされた人間に掛ける言葉は罵倒で良いのか。

 社会を構成しているのは個じゃないのか? 俺なんじゃないのか?
 太宰治が『人間失格』で言ってた気がする。世間と言うのは、君じゃないか、と。

 事件の本質は、心神喪失とか、罰する罰さないの部分には無いと思う。
 ある一人の人間が、孤独になることが問題なんじゃないか?
 
 人生で何かミスをしたり、レールを外れたら終わり――。
 セーフティネットも機能していない。

 自分のことで精一杯で、隣人に優しくする余裕がなくなってきたと感じる。
 だから優しくしろ、とは叫べない。
 俺だってそういう人たちに真に寄り添うことはできないからだ。

 カエルの話がある。

 ひとつは、食べ物の中に混入した話。それを自作自演だろうという話。
 俺は良いと思う。疑うことは建設的な議論に必要だ。

 ひとつは、あなたの田んぼで鳴いてるカエルが煩いから対処してくれという話。
 余裕ねーな日本。大丈夫か近代社会。

 ところで、内容自体には肯んぜる部分がある。
 人間、アラサーになると、物音に敏感になるのだ。

 俺もある日、急に耳鳴りを発症した人間だ。
 あちこち病院にかかり、治療不能と言われ、絶望し、苦しんだ。
 自分の耳の中、頭の中で鳴っているから、耳栓は意味が無い。

 ずっと耳鳴りを気にしているから、周囲の小さな物音に敏感になった。
 その対処のために耳栓をした。眠れるようにはなったが、物音には更に敏感になった。

 というワケで、こういう状態になると辛い。
 だから、上述の人物も、カエルをどうにかしてくれと言ったのかもしれない。

 それは世間知らずとか恥知らずとかではなく、そういう手段に出るしかなかった、
どこにも行けない袋小路からの、仕方なく出た嘆願の発露だったのかもしれない。

 いや、知らんけどね?

 ちなみに、俺は今は耳鳴りは気にならなくなりました。
 ずっと鳴ってるけど、慣れた。
 もう恐怖は感じないし、眠れる。

 もしも願い一つだけ叶うなら
 君の側で眠らせて どんな場所でもいいよ
                「Beautiful World」――宇多田ヒカル

*1:ハイパーセンシティブパーソン