ウラブタの上

ハンマーソングなしの痛みの塔

蜘蛛と地衣類とわたし

 車で揺られること数時間、たどり着いたのは奥多摩小河内ダムだ。
 車を降りると朝の冷気を感じて、一度だけ身震いをした。風邪はまだ完治したわけではないので、これから予定している散策にこの身体が保つかどうか。
 ダム周辺を歩いてまず感じたのは、蜘蛛が多いことだった。通る植え込みのほぼすべてに網がかかっていて、その真ん中には蛍光色をたたえる蜘蛛が鎮座している。トイレの軒に、非常階段の扉の脇に、朝霧が乾ききらない欄干の下に、彼らは巣を張り生活している。
 人間の生活圏に蜘蛛が居るというよりは、蜘蛛の生活圏に人間が割り込んでいるといったほうが正しいのかもしれない。
 山合のダムは、自然が近い。

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 さて、蜘蛛に風情を感じるのも束の間、いざ散策を始めようとする僕らの目の前に、「台風19号の影響でいこいの路は通行止めです」と書かれている看板が現れた。
 なるほど、僕らはどうやらこの遠出の甲斐を何かで補填しなければならないようだった。
「それはたとえば、蜘蛛の生態について思いを馳せるとか?」
 僕が訊くと、彼女は笑って返した。
「それはたとえば、このダムを楽しむとか」
「水しか貯まってないけど、どう楽しめばええねん」

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「え? そうだな……じゃあ――あそこに黄色い浮きがあるでしょ?」
 彼女の指差した方向には、ダムの湖面を横断するように浮きが連なっている。
「うん」「見た?」「うん」「どう思った?」
「特になにも思わなかったけど」おそらく水量をひと目でチェックするためにあるものだろう。
「はぁ……」
 彼女はため息をつくと、分かってないなあといった表情で続けた。
「なんで浮きがあんなに浮かんでるんだろうなあって、思わない?」
「思わないね」
「思って?」
「……思った」
「ヨシ」
 僕は何がヨシなのかさっぱりわからなかったが、どうやらそれがダムを楽しむための手段のひとつであるようだった。
 
 とはいえ、いくら電灯のヒモで30分は時間を潰せる僕といえど、限界はある。湖に浮かぶ浮きだけをいつまでも舐め回しているわけにはいかない。
 僕らは一路、近場の紅葉回廊へと向かうことにした。

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 そこは何もなかったダムとは違って、立派な景勝地であった。各所に植えられたカエデの大多数は真っ赤に燃えており、秋を狩るという実感を充分感ぜられる。
 ただ、残念なポイントを上げるとすれば、割と間隔をあけてまばらに生えているものだから、無理矢理ここを観光地にしました感が出てしまっているところだ。
 時期が早かったのか色づきがあまり良くないものもあり、どちらかといえば木についている緑の地衣類の生態のほうが気になる始末だった。

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「じゃあ、紅葉の楽しみ方を教えてあげようか」彼女が言った。
「いや、いい」僕は遠慮した。流石に紅葉の観賞法をレクチャーされるほど老いたつもりはない。
「まず、あの山を見る」彼女は返答を無視して話を続けた。
「はぁ」その方向には、まだ紅葉が進みきっていない、こんもりした落葉樹林が広がっている。
「そしたら、自分が巨人になったと仮定する」
「はぁ」僕はシガンシナ区の門を一発で蹴破れそうな巨人になった。
「そしたら、あの山をふわりと掴む」
「はぁ」
「掴んだ?」
「いや?」
「掴んで?」
「掴んだ」
「触った感触は良い?」
「いや?」
「気持ちいいと思え」
「……思った」
「ヨシ」
 つまりそれが紅葉狩りを楽しむための手段のひとつであるようだった。

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 最後に、神社に立ち寄った。河口浅間神社――かつては富士山信仰のメッカだった場所らしい。
 正面の大きな鳥居をぬけるとすぐ、巨大なスギ並木が僕らを圧倒した。首だけでなく上体も反らさなければ木の先端が見えないほどだ。
 なんでもここは樹齢1200年を越えるスギがいくつも現存しているらしく、学術的にもかなり貴重な場所なんだとか。
 ためしに入り口の太い幹の周りを徒歩で一周してみたところ、元の場所に戻るまで10秒かかった。
 僕は「でかい」と思った。ヨシ。
「それにしてもさっきから観光客が多いね」
 紅葉回廊からこっち、ツアーのバスガイドさんをよく見かけた。人口密度も高く、すれ違う人が外国語を話していることもざらだった。
「ここ、大スペクタクル! っていうようなものないけど、それで観光客外国人は満足できるのかな」
「え?」
「え?」
「まぁ、外国客観光人にはもの珍しく見えるものもあるんじゃない」
「確かに。土産屋も多いし、外交官韓国人は喜ぶかもしれない」
「――外国人観光客は?」
「え?」「え?」
 言いながら、僕は10円を賽銭箱に入れた。
 紅葉回廊にも境内にも、やっぱり蜘蛛はたくさんいたし、石造りには地衣類が張り付いていた。
 これらがもし宇宙人の監視装置だったなら、人間の動向を探るのは簡単だろうなと僕は思った。

 善し。