文学青年保存館

2023 7.25 ブログの更新を停止しました

ヤフーニュースにコメントを消されたので仕方なく

 ヤフーニュースの植松被告の記事が、あたかも障害者全体への攻撃かのように書かれていたので、以下のようなコメントを書いた。

植松被告の主張は「意思の疎通が図れない重度障害者の安楽死」であり、身体障害者や軽度の知的障害者をどうこうする意図はない。私たちが考えるべきは重度障害者をどう守るかではないか。

 
すると10秒と経たずにコメントが消されてしまった。
 後に残ったのは植松被告を稚拙な文言でただ叩くだけのコメント群である。
 誰も、何も考えようとしていない。大丈夫なのか。

 一応言っておくと、俺は植松被告の主張を認めることはできない

 植松氏の主張を断片的にまとめているのは、iRONNAのページに詳しい。
 いくつか引用すると、「人間が幸せに生きる為に、心の無い者は必要ない」「意思疎通がとれない者(心失者)を安楽死させる」「心ある人間も殺す優生思想と私の主張はまるで違います」。

 なるほど。面白い意見だが、ちょっと掘り下げが安易な印象を受ける。
 でも、世にいる人の何人が、彼のこの主張に対して反駁できるだろう? 根源でない反駁ならできるかもしれない。例えば「重度を差別すれば、軽度の人も差別されかねない! ゆえに許されない!」とか。
 しかしそれは本質に触れていない。あなたは心失者のどこに価値があるのか、言えるだろうか?
 僕は言える。

 論を進める前に、(このブログ記事を書いている)俺のスタンスをはっきりさせておく。
 俺は、すべての人には2種類の価値があると思っている。
 ひとつは、社会における価値だ。
 ヒトが生きていれば需要が生まれる。水、食料、衣服。それは社会を動かすギアであり、すべてのヒトはその意味で価値がある。
 逆に言うとこれ以外の価値はほぼ無い。大谷翔平でも2万年後には無価値かもしれない。
 意思疎通が図れない人は社会にアクセスする際、色んなコストがかかる。
 植松氏はおそらくこの部分を指して無駄だと、功利主義的な判断をしたのだろう。

 ただ、人間は感情の生き物だ。この「意思疎通が図れない人」に価値を持っている人もいる。
 たとえば、自分。たとえば、両親。たとえば、別の「意思疎通が図れない人」。
 その価値は数値にすることはできない。プライスレスの価値なのだ。
 自分以外の誰かが、もしくは自分自身が自分自身に価値があると思っているのなら、
その時点で人間であり、誰もが尊ばれるべきだ。
 これが、ふたつめの価値。コギト・エルゴ・スムの価値だ。

 心失者がその存在を担保されるのは、こうした普通は意識すらされない道徳的な意識が世間に広く普及していることによる。ゆえに社会は重度知的障碍者の人権を守ろうとする――今までそうだったから、保護しないのは仁義に悖るから、そうあるのが社会通念上当然のことだから。

 iRONNAでは参考意見として、重度身体障害者の方にインタビューする記事を載せていたが、
俺はあのインタビューにあまり意味はないと考えている。
 彼女は心失者ではないからだ。
 植松被告が「意思疎通が図れない人」を差別するのなら、参考意見は彼らに訊くべきなのだ。しかし、彼らは喋ることができない。
 この問題の根深いところはココにある。当事者の意思を確認できないために、議論は外野で行われるしかないのである。

 一応言っておくと、上記記事の意見は素晴らしい内容です。俺の記事の200倍は読む価値がある。

なぜその命が大事なのか。命が大事だということは、学校の道徳とかで習うけれども、なぜ大事なのかは習わないんですね。そんなものは一緒に生きていく中で感じとること

 深く考えているのが分かるし、味わった艱難辛苦を言葉の端々に感じる。静謐なスゴみと孤独の中に、人としての機智が光っている。
 ただ、彼女は知的障害者ではないはずだ。もちろん、問題を考えるための足がかりになるので、その意味では貴重なインタビューではある。

 閑話休題。こうして考えてみると、植松被告の主張が間違っていることが分かる。
 心失者という考え方も一方的なものだ。彼は刃物を突き立てる前に意思疎通が可能かどうか声をかけて確認したらしいが、それで判別できるわけもない。発声だけできない人がいたかもしれない。1日に数分だけ自分を取り戻す人がいたかもしれない。彼らすべては、自分に価値があると信じていたかもしれない。
 ならば、植松聖に心から同意することはできない。

 俺は聖人君子ではないので、実を言うと知的障害者のことはあまり良く思っていない。
 普通に生きている人が彼らによって不幸になるのはとても悲しい。
 ゆえに排他的になるのは仕方のないことだと思っている。

 日本は宗教色が希薄だから、こうした倫理哲学的な問題を考えやすいと思う。死刑に賛成反対、移民に賛成反対。
 だが、大抵の人はそもそもそういう問題を考えない。考えなくても生きていける。
 考えた結果、人には言えない結論に至ることだってある。だから心に秘めて終わる。
 植松氏が足を踏み外したのは、絶望からだろうか? 大麻によるものだろうか?
 俺等が立っている崖は、思ったより切り立っていたのかもしれない。

 ただ、意見を言いやすいはずのネットで検索しても練られた意見があまり出てこないのはまずいかもしれない。
 ツイッターは短絡的な植松氏ねの嵐。その視点は植松氏の主張と似てるんじゃないか?
 重度知的障害者の価値について掘り下げて考察しているサイトも、ほとんど見つけることはできなかった。

 親御さんが~
 いなくなったら施設の人が悲しむ~
 社会において人は生きるべき~

 そうじゃない。

 自分が自分を肯定してるなら生きるべきだと俺は思う。