文学青年保存館

2023 7.25 ブログの更新を停止しました

この場所が心細くて仕方なくても

 コロナの真の恐ろしさは精神面へのダメージなのかもしれない。
 仮にかかっても死ぬことはまず無いと分かっているが、どうしても生老病死を意識してしまう。
 
 この状況がいつまで続くのだろう。
 俺はいつまで生きていることができるだろう。
 何を世界に遺せるだろう。

 年甲斐にもなく、死ぬのが怖いと思うようになってきた。

 小学生の低学年ぐらいの時分に、夜、布団の中で祈っていた時期がある。
「おばあちゃんとおじいちゃんが死にませんように」
 当時はふたりともまだ健康で、死を意識させるようなきっかけはなかった。

 だが、ふと気づいたのだろう。人生の時間は有限であると。
 そして老いたヒトは、その時間がもう残り少ないのだと。

 この時点では自分を棚に上げているのが面白い。
 お前まだ自分が死なないとでも思っているんじゃないのか?(戸愚呂弟)

 それから一人で寝るようになり、次々やってくる社会の段差を超えていくうち、
 いつしかそういうことを考えなくなっていった。

 十数年後、祖母は認知症になり、やがて死んだ。
 その数年後、祖父は胃癌になり、寝たきりになり、やがて肺炎で死んだ。

 あれ? もしかして、俺が死を意識したの、今回が初めて?
 え、嘘でしょ? 風邪で高熱だしたときとか、心細くはなったけど……
 そういえば、今日みたいに恐ろしいと思ったことはなかったかもしれない。
 
 まだ20代だぞ俺。中学生か。
 俺の時間は受験に失敗した15歳の時点で止まっているが、それが再び動き出したかのような衝撃を感じている。
 死、怖くね?

 で、おフロに入って、ボーっと考えた。
 認知症って死の受容プロセスなんじゃないかな。
 自分の置かれている状況が分からなければ、怖いと思うこともない。

 とてもじゃないがシラフの状態では死ねまい――。
 巷ではボケ防止が叫ばれているが、それは逆に死の恐怖を味わわせ続ける行動……だったりするのかもしれない。

 他方、普通の人間には恋愛という処方箋がある。
 結婚して子供をもうければ、生きる目的が増える。
 それらを自分より大切な存在だと思えたなら、死などもう怖くはないのかもしれない。

 ……本当に?
 今でもたまに、父は入浴中の俺に声を掛けにくる。
 中学生の時にてんかんの発作が起き、浴槽で溺れて死にかけたことがあるからだ。

 案の定、今日も来た。
 だが今日は声を掛けに来るのがやけに早かった。
「ニオイを感じなくなったらコロナの可能性があるから気をつけてよ」
 よもや、俺がフロに入る前にそう言ったからか?
 父ももう歳だ、コロナにかかればタダでは済むまい。
 だからなんとなく不安になって、子供の様子を見に行った――。

 すべて想像に過ぎない。元来、心配性な人物だ。
 だが、もしそうだとしたら。
 剛毅だ。恐怖に耐えながら生きているということになる。
 そして俺は、そんな人物に愛されているということになる。

 俺たちはゲームをしていて、自分のプレイするキャラクターがデスするとき、
「あっ」という気分になるはずだ。
 たぶん実際の死もそう。あっ、と思ったときには死んでいるのだと思う。

 だから、だから俺は何をするでもない。

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 アクタージュの羅刹女編ビミョーだったなぁとか、

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 プリコネのユニのガチャ引こうかなぁとか、

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 ARAMで一切攻撃せずに勝つトランドルおもしれーとか、

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 未だにアンリミで黄金郷のNビショ回す俺やばすぎとか、

 そういうことを思いながら、

 いつか『あなたのための物語』のように尊厳なく死ぬために、
 とりあえず今日は、アマプラでグリッドマンのアニメでも見る。