文学青年保存館

2023 7.25 ブログの更新を停止しました

村上文豪の娘

 黙禱の字を見ると布団ちゃんを想起するようになった。
 敷衍すると、生者の思いは死者に届かないため、その点を指して総大将は意味が無いとしたのだろう。
 ノンデリではあるが、理に適った視点である。

 付け加えるなら、祈ることで生者に対しての意味は生まれる。
 生者は起こった事象を元に、次へと活かすことができる。
 お墓や祈念碑、献花はそのためにあると言ってもいい。

 言うまでもないが、俺らはすでに超常のものを信じていない。
 神、佛、靈、魂はこの世に存在しないという前提に基づいて話を進める。

 加害者への反応はオミットされている。
 天災に遭ったかのように、粛々と悲しみに殉じる。
 俺はそこに『楢山節考』のおりんを見る。
 不可逆的な破壊によって齎されたものの中で、体裁の悪いものを描くことは憚られるのだろう。
 あたかも、鬼舞辻無惨の言説が罷り通っているようだ。
 ああいうノンデリの正論は、世間では子供みたいだと言われ一笑に付される。
 一面の真理は詭弁であり、論考には値しない。必要なのは犯人への糾弾のみ――

 詭弁はともかく、糾弾については本当にそれでいいのかな。
 なぜそういう人が出てくるのか、という点はあまり掘り下げられないように思える。
 というか、掘り下げてもどうしようもない部分はある。
 だが、彼らを救うセーフティネットがないことを指摘する人は昔から居た。

 たとえば村上春樹である。

河合「社会が健全に生きているということは、そういう人たちのいるポジションがあるということなんです。(中略)そういう人たちを排除すれば社会は健全になると思っている。これは大間違いなんです。そういう場所が今の社会にはなさすぎます」
       ――村上春樹『約束された場所で』文春文庫 2001年7月 300ページ

 「そういう人」というのは、本書中で「世間でうまくやっていけないだろうな」という人を指している。
 一般社会の価値観からズレてしまった人たち――現代風に意訳すれば、無敵ナ人である。

 アングラ2は地下鉄サリン事件についての本だが、一般人が急に不条理を被ったという点には類似するものがある。
 類似しないのは組織犯罪であることだが、作られたストーリーに基づく犯行という点においては似通ったものがないだろうか。
 時代が時代なら、宗教に“掬われて”いたかもしれない。
 だが、今や宗教は集金のレトリック。死の恐怖を紛らすために作られた幻想は堕し、信ずる人もなくなった。

 この本の中では、そういう人が犯行に及ぶ理由を次のように考察している。
 曰く、自分(たち)を善と見做した場合、外に悪を作らなければバランスが取れない。
 バランスを取るためには、外を攻撃するしかない。

 俺が勝手に論を拡げると、まず「自分にとっての善」は世間から見れば悪である。反転している。
 その悪は通常、家庭の中で担保される。ひとつのコミュニティで囲われ、社会に波及するのを防いでいる。
 だがそのコミュニティが崩壊すると、自分ひとりでは悪を抱えきれなくなり、犯行に及ぶ……のではないか。

 俺が今思い浮かべている2つの事件のどちらも、家庭が崩壊している。
 人間に必要なものはお金ではなく、居場所なんじゃないか。

 俺はオープンレックで482氏に水を向けたことがある。「金もだけど友達がほしいよな」
 すると彼も同じような意見を返した。「孤独が一番辛いかもな」

 村上春樹は最後に、彼らは異常な人ではなく、落ちこぼれでもなく、風変わりな人でもなく、普通の人だと結んでいる。
 ただコミュ障で、自己表現の手段がなく、プライドとコンプレックスに苛まれているだけかもしれないと。

 この結論に異論を差し挟む余地はないだろう。
 誰だって分かる。俺だって分かる。
 ちょっとニートワナビをしたことのある人なら、
自分にそういう防衛機制が働いていることなんて百も承知なのである。
 子供部屋おじさんだって、好き好んで無敵之人にジョブチェンジなんてしたくない。
 
 ところで、この記事が何を指して書いているのかは敢えてボカしてある。
 要人についての話と、あるスタジオの話がクロスしてる。
 俺には正面切って叫ぶ胆力はありません。
 自衛として、こういう手段を取ったことは慚愧に堪えないが、後悔はない。