応援と祈りの違い
サッカーの日本代表を応援することは、
俺は自分の意思を仮託するギャンブルだと考えている。
日本が勝てば嬉しいし、負けたら悔しい。
一体感を得るのも応援の目的のひとつかもしれない。
では祈りとは何か?
とくに無神論者で無宗教、
100円もらえるなら仏像だろうがXXできる俺が言うところの祈りとは何か。
たとえば、海で溺れた子供のニュースを聞いたとき、
その子供が助かってほしいと祈ることがある。
もちろん、何の意味も無い。
俺の意思がその子供や家族に届くわけもないし、
自分の家族や友人にも祈ったことを伝えないだろう。
この場合も、応援のときと同じく、
助かれば嬉しい、助からなければ悲しいのギャンブルと云っていいだろうか?
おそらく違う。
違うが、祈ることは見目麗しい行為でもないと思う。
いつか同じ状況になったときのための心の試練?
人の生き死にを考えることが優しさに繋がる?
人間存在を深めるための自己研鑽であり、人気取り、ポイント稼ぎ、自己欺瞞……あるいは自己憐憫も綯い交ぜになっている気がする。
仮に悲劇でも、カタルシスを得られる。
祈るという心の動きには、捨てるところがない。
少しサイコパスな考え方だが、こと哲学に於いてこの割り切り方は必要になる。
ところで、これが海難事故でなく、まだ病院にも居ない場合――
もし町内で居なくなった子供の捜索隊に俺が参加することになったら、
どういう心持ちで捜すべきなのか。
きっと鬱蒼と茂る林の中や、水路を巡るに違いない。
そこに居て欲しくないという思いと、もし居ればさもありなん、という思いが拮抗するはずだ。
やらなければならない誰かの心境を慮るに、やるせない。
【追記】
そうか……。
俺も何度も死にかけたし、いま生きてるのが奇跡みたいなところはある。
子供時代に近くに行楽できる川が在ったらまず生きてないな。
ちな、ツーリングに誘われても固辞するくらい護身完成してる。