再考:感情のピクセル
恥ずかしながら昨日この曲を知った。
リリース当初から色々な感想があったようで、当時の音楽シーンへの風刺だとか、
歌詞は重要でないとか、伝わらない歌詞に意味はないなどの読みが存在したと聞く。
それらの解釈には概ね同意するが、今日はあまり叫ばれていない要素について掘り下げる。
自分でも雑に考えてみたところ、
・いつもの茶化す岡崎節が出ていて良い
・こんなんでも1700万回も再生させられるという矜持/同業他者へのマウント/自虐
・これでヒットしていいのかという音楽業界への手刀
・普通に曲として良い
・真に伝えたいことはワニさんの境遇
などの要素に活路がありそうだ。
まず、一周回って普通に良曲である。
「カッコいいロック」と「ファンシーさ」が両極にあり、
光と闇が合わさって最強みたいな浪漫が生まれている。
当然ながらこんなことをしている曲は珍しく、その意味での価値もある。
幼児語やオノマトペをロック調の曲で――ダサいまま――使うのは今でも新しさを感じる。
だが、体育御大が本当に通したいシングルイシューはワニさんなのではないか?
本稿が提起するのはこの部分になる。
面白いことに、日本語は文脈さえ正しければどんな文章でもそこに解釈を見いだせる。
つまり、ふざけ倒したサビでも、ワニさんが可哀想という感情を引き起こす。
サビはワニと4名が対決する構図であり、結果的にワニが敗北する負け犬の物語である。
対決の構図は感情移入を呼びやすいと言われ、
また種々の物語において、その主人公は序盤は敗者であることが多い。
判官贔屓という言葉があるように、弱者が戦う姿は共感を呼ぶのだ。
この構図だけでも、筆者はその辺の恋愛曲よりも心が惹きつけられたが、
感情のピクセルは考察の余地が広いところに優れた点がある。
ワニは純粋な肉食性だが、ウサギとゾウは草食で、ブタとキツネは雑食である。
ここでは、強者の獰猛性を持つワニが仲間外れにされているという逆転が起こっている。
これは日常でもありふれた概念であり、一例としては
肉体的に弱い女性や子供が社会で守られ、結果的に男性よりも強い存在となることが挙げられる。
現代社会では孤立することは詰みであり、ときに罪である。
ワニの失敗は反面教師として身につまされ、
交友関係の維持に労力を割かなかった代償を支払わさせる姿にはやりきれなさを感じる。
また、ワニさんが最後まで救われない=仲間になれないことで、
悲劇および喜劇としての印象がリスナーに残り続ける。
だが、彼ら5名の関係をそんな安直な構図に落とし込むだけに留めていいものだろうか?
何かまだ見えていない部分はないだろうか?
曲中にカテゴライズの壁という歌詞があるように、ワニのみが両生類であり、
その他は畜生として野山を自由に駆け回る点に注目してほしい。
4名は水魚の交わりのように親しいが、ワニは一匹狼――。
どこの馬の骨とも分からない者を仲間に加えるのは怖いし、そもそも馬が合うかも分からない。
ワニが仲良くできない理由を生活圏やプライド、自己責任論に求めるのもいいが、
既得権益を貪るカルテルとしての4名の癒着にも、やはり問題がある。
更に、描写がワニを中心とした三人称一視点であり、
これが信頼できない語り手の効果を生んでいる可能性もある。
ワニはもしかすると、猫をかぶって4名に近づき、虎視眈々と捕食する機会を窺っているのかもしれない。
MV最後の苦悩は、目論見に失敗した失意の表現だった、
ワニの先輩や仲間は食にありつき名誉を得ているのに、自分は得られていない……。
そんな馬鹿げた解釈すら可能なところに、この曲の懐の広さを感じる。
総括すると、この曲はすべての要素がワニさんに集約していると言える。
その他の歌詞すべて(ファンシー部分の可愛さも含む)はワニを際立たせるための噛ませ犬であり、
その他の要素すべて(メタ、風刺)もワニという本質を隠秘するための当て馬なのだ。
この曲におけるメタフィクションは非常に重層的である。
如何なる読みも可能で、どのレベルで解体しても面白い。
感情の最小単位、ピクセル。その鋭さに脱帽する。